それは、少し昔、私の古い友人から聞いた話。
当時、彼女が出来て間もなかった彼に対し、私&悪友たちは「最近どうよ?どうよ?」とうれしそうに聞きました。それに対し、彼は多少照れながらも、最近彼女と初めてキスした、と漏らしました。
「おおおおおお!!」と一気に盛り上がる私&悪友バカ一同。「で、どうよ?どうよ?」と根掘り葉掘り聞きだそうとします。
彼はそれに対して破顔したままこう答えました。
「いや、最初はキスってもっと気持ちいいものだと思ってたんだけどさ、実際してるときにはただ唇が触れ合ったってだけな感じで別にたいしたことはなかったんだよ、照れたけどね?でも、その後帰ってからさ、なんかこう、うれしさが込み上げてきたというか・・・」
当時は、おいおいおいおい幸せモ~ドだなコラァ許さん制裁じゃと突っ込みまくりだったのですが。
後々考えてみると、これはなかなか面白い話だと思いまして。いや、変な意味じゃなく。
普通私たちが喜びを覚えるのは、その行動の最中、もしくは以前な訳ですよ。どこかに遊びにいくとか、旅行に行くとか、×××とか(いやん)、あるいはもっと単純に、今日見たいテレビなんていうのでもいい。
しかし、行動後の喜び、というのはそれに対して圧倒的に少ない。昔見たテレビの内容や、修学旅行なんかももうほとんど忘れちゃっていますしね。これは何故かと考えてみると、人はやはり「復習」型ではなく「予習」型の人間だからではないかと。「待つ」ことも含めて楽しみなのであり、過ぎたことは過ぎたことで、また新たな未来の楽しみに向かって進む、人は基本的にそういうスタンスを取っていると思います。
現在の私たちもそういう考え、すなわち、鳥コンに出場して大記録を出す瞬間を楽しみにして頑張っています。しかし、鳥コンが終わったそのあとは?鳥コンに挑んだことは、大学時代の思い出として次第に薄れていってしまうのでしょうか?
普通ならここは「いや、そんなことはない、このかけがえのない出来事は、いつまでも私たちの心に大切な思い出として残るだろう。めでたしめでたし」とでも続くべき部分ですが・・・。残念ながら私もそんなキレイゴトをいっているほど純粋な年ではなくなってしまいました。めでたくないめでたくない。
実際撮った昔の写真などを眺めてみても、思い出せないことは多いです。写真の中ではとても楽しそうに笑っているんですけれども。
ですから、今年こうして皆で頑張った人力飛行機ですが、その結果がどうあれ、まず間違いなくそのかけがえない思い出も、私たちの中では年をとるにつれ薄れていってしまうでしょうね。
さて、ここで冒頭の話です。薄れていくと思うなら、この例は何だというのか。
私たちがこれからのこと、例えば鳥コンに楽しみを感じるのは、それがどうなるか「知らない」からです。プラットホームに立つとどうなのか、当日どんなことが起こるか、本当に飛ぶのか。それに考えをめぐらすのが怖くもあり楽しくもあるわけです。であるから、どうなるか「知って」しまった後は。犯人のわかっている推理小説を読むことが苦痛なように、あまり楽しむことは出来ないのではないかと。
ですが、時が経ち、その思い出が薄れてくるとどうでしょう?面白いことに薄れるほど、どうだったか「知らない」状態となっていくわけです。記録の数値や断片的な記憶はあっても、細かい部分は忘れています。映像などを残しておいても、そのとき自分が見て、感じた記憶とは違うものですし。そういったことに、想像も交えながら思いを馳せて楽しむ・・・。
おそらく冒頭の彼は、舞い上がってキスした時のことはしっかりとは覚えてなかったんだと思います。でも後からそのときのことをあれこれと思い浮かべて、ああ、ほんとにキスしたんだなあと思うにつれ、嬉しさが増した。そういうことなんじゃないでしょうか。
何年か経ってから、あの機体は私の目にどう映ったんだっけか、あのときのみんなの笑顔はどんな感じだっただろうか、そんなふうに薄れた思い出を掘り返してみる。かなり気の長い話ですが、そんな日がくるのを想像するのが楽しみでもあります。
しかし何年か経ってからバードマンニッキを読み返す日が来るだろうことは恐怖ですね・・・。過去の自分の文章を見返すことほど恥ずかしい事はないったら。
当時、彼女が出来て間もなかった彼に対し、私&悪友たちは「最近どうよ?どうよ?」とうれしそうに聞きました。それに対し、彼は多少照れながらも、最近彼女と初めてキスした、と漏らしました。
「おおおおおお!!」と一気に盛り上がる私&悪友バカ一同。「で、どうよ?どうよ?」と根掘り葉掘り聞きだそうとします。
彼はそれに対して破顔したままこう答えました。
「いや、最初はキスってもっと気持ちいいものだと思ってたんだけどさ、実際してるときにはただ唇が触れ合ったってだけな感じで別にたいしたことはなかったんだよ、照れたけどね?でも、その後帰ってからさ、なんかこう、うれしさが込み上げてきたというか・・・」
当時は、おいおいおいおい幸せモ~ドだなコラァ許さん制裁じゃと突っ込みまくりだったのですが。
後々考えてみると、これはなかなか面白い話だと思いまして。いや、変な意味じゃなく。
普通私たちが喜びを覚えるのは、その行動の最中、もしくは以前な訳ですよ。どこかに遊びにいくとか、旅行に行くとか、×××とか(いやん)、あるいはもっと単純に、今日見たいテレビなんていうのでもいい。
しかし、行動後の喜び、というのはそれに対して圧倒的に少ない。昔見たテレビの内容や、修学旅行なんかももうほとんど忘れちゃっていますしね。これは何故かと考えてみると、人はやはり「復習」型ではなく「予習」型の人間だからではないかと。「待つ」ことも含めて楽しみなのであり、過ぎたことは過ぎたことで、また新たな未来の楽しみに向かって進む、人は基本的にそういうスタンスを取っていると思います。
現在の私たちもそういう考え、すなわち、鳥コンに出場して大記録を出す瞬間を楽しみにして頑張っています。しかし、鳥コンが終わったそのあとは?鳥コンに挑んだことは、大学時代の思い出として次第に薄れていってしまうのでしょうか?
普通ならここは「いや、そんなことはない、このかけがえのない出来事は、いつまでも私たちの心に大切な思い出として残るだろう。めでたしめでたし」とでも続くべき部分ですが・・・。残念ながら私もそんなキレイゴトをいっているほど純粋な年ではなくなってしまいました。めでたくないめでたくない。
実際撮った昔の写真などを眺めてみても、思い出せないことは多いです。写真の中ではとても楽しそうに笑っているんですけれども。
ですから、今年こうして皆で頑張った人力飛行機ですが、その結果がどうあれ、まず間違いなくそのかけがえない思い出も、私たちの中では年をとるにつれ薄れていってしまうでしょうね。
さて、ここで冒頭の話です。薄れていくと思うなら、この例は何だというのか。
私たちがこれからのこと、例えば鳥コンに楽しみを感じるのは、それがどうなるか「知らない」からです。プラットホームに立つとどうなのか、当日どんなことが起こるか、本当に飛ぶのか。それに考えをめぐらすのが怖くもあり楽しくもあるわけです。であるから、どうなるか「知って」しまった後は。犯人のわかっている推理小説を読むことが苦痛なように、あまり楽しむことは出来ないのではないかと。
ですが、時が経ち、その思い出が薄れてくるとどうでしょう?面白いことに薄れるほど、どうだったか「知らない」状態となっていくわけです。記録の数値や断片的な記憶はあっても、細かい部分は忘れています。映像などを残しておいても、そのとき自分が見て、感じた記憶とは違うものですし。そういったことに、想像も交えながら思いを馳せて楽しむ・・・。
おそらく冒頭の彼は、舞い上がってキスした時のことはしっかりとは覚えてなかったんだと思います。でも後からそのときのことをあれこれと思い浮かべて、ああ、ほんとにキスしたんだなあと思うにつれ、嬉しさが増した。そういうことなんじゃないでしょうか。
何年か経ってから、あの機体は私の目にどう映ったんだっけか、あのときのみんなの笑顔はどんな感じだっただろうか、そんなふうに薄れた思い出を掘り返してみる。かなり気の長い話ですが、そんな日がくるのを想像するのが楽しみでもあります。
しかし何年か経ってからバードマンニッキを読み返す日が来るだろうことは恐怖ですね・・・。過去の自分の文章を見返すことほど恥ずかしい事はないったら。
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帰省先で久々にこいつに会って思い出したエピソードです。今では考えられないくらい初々しいです。ねえ鈴木さん。
昔は誰かがもらったラブレターとかでもおおはしゃぎでしたしねえ。いつからこうもねじまがってしまったのか。なあ市場。
帰省先で久々にこいつに会って思い出したエピソードです。今では考えられないくらい初々しいです。ねえ鈴木さん。
昔は誰かがもらったラブレターとかでもおおはしゃぎでしたしねえ。いつからこうもねじまがってしまったのか。なあ市場。
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自分と相手がつながっているという実感、確実に恋愛のステップを登っているという実感、そういうのが嬉しさの正体じゃないかと私には思えますが・・・